第7話 Atelier
韓国から帰ってきて、日本では芦屋と青山での仕事の他に
岡山でのレッスンと新潟での大きな結婚式の打ち合わせにと移動しまくる日々だった。
たくさんの人と会うたびにパリへの挑戦の期待の大きさを感じた。
日本でいる間に、ネットでアトリエとして仕事を始める物件を探した。
アイロニーパリ店予定地からヴィクトルユーゴー広場を挟んでちょうど反対側。
店からは200メートルくらいだろうか。
凱旋門までまっすぐ伸びる大きな通りアヴェニューヴィクトルユーゴー沿いに
ちょうどよさそうな物件を見つけた。
パリの住所は日本のように地区ではなくて、すべての通りに名前がついていて、それが住所になっている。
rue というのが 通りのことで パリ店予定地の通りは 3 rue Mesnil (メニル通り3番地)
Avenue がついてると大きな並木道になる。並木がなければ大きくてもrueらしい。
Boulevard というのも大きな並木道だけど、城壁跡の環状の並木道のことらしい。
番地もわかりやすくて奇数側と偶数側に分かれていて順番に1.3.5.7と2.4.6.8と並んでいる。
さておき、
なるべく店予定地に近くて、
たくさんの花を運んだりするのに大変じゃないように1階
(パリでは0階といい日本の2階が1階になる)、
住居兼アトリエの生活感があまり出ないように2部屋ある物件を探して
探していた通りの物件がみつかった。
激しい日本での移動のなかでの仕事を終えて10日後にまたパリへ。
今回から空港で車を借りることにした。
ベリブというパリ市内のいたるところにある貸し自転車の自動車版でオートリブというのもあるんだけど、
パリはレンタカーが意外と安く、週に何度か仕入れだけでも、20日間レンタカーをしてしまうのと大差なかった。
左ハンドルのマニュアル車で右側通行というのはすぐに慣れたが、
ほとんど文字情報がわからないので、微妙な交通ルールの違いは肌で感じながら覚えていった。
例えば、空港からパリへ向かう高速道路では、想像通り日本とは反対で一番左側が追い越し車線だ。
日本よりも時速20キロくらい早めが平均的な感じだ。
一番左側を走っていると前の車がやたらと左端を走っている。
なんだろう。その前の車も超キープレフトだ。
不思議だなぁと思っていると、ガンっ、というのでなにかと思ったら、
バイクが右側を追い越しざまに、車を何度か殴っていった。
えー!なにー!と思っていると次々とバイクが追い越していく。
どうやら、一番左側の車線の右側はバイクの通り道のようで、
バイクが通りやすいように車はなるべく左側に寄っているようだ。
俺がずっと真ん中を走っていたので邪魔になっていたらしい。
しかも、そのバイクが殴っていったときにサイドミラーをたたんでいったので、車線変更が困難になった。
高速だし信号などで止まらないので身を乗り出してミラーを直すこともできない。
無理だとわかっていながら窓を開けてみて運転しながら
反対側のミラーに手を伸ばしてみて全然届かないという絵は自分で笑ってしまうくらい滑稽だった。
やれやれ。
そんなパリ車社会の洗礼を浴びながらなんとかアトリエに到着。
待ち合わせの時間よりさきに家主は来ていて迎えてくれた。
中庭を抜けて奥の方に歩いていくと、おそらく昔は馬車をいれていたんじゃないかという小屋のような駐車場があり
そのさらに奥に小さな庭と小さな小屋のようなメゾネット。
1階にリビングとキッチンがあり、2階に寝室とトイレとシャワーがある。
よくみると、鉄格子が残されていて、馬小屋だったことに気づいた。
悪くない。
家主は親切な人で、庭部分とその前にある小さな倉庫も自由につかっていいと言ってくれた。
荷物を解いたら、パリの少しだけ外側にオフィスを構えている、会計士事務所へ。
この会計士事務所が、弁護士も抱えていて、多くの日本企業のパリ進出を手助けしている。
事務関係は日本でも苦手なので、プロに任せるようにしていた。
サポートを頼んでいたのは、店の物件の契約のチェックと、支店の設立と、代表者のビザの取得。
事務仕事は日本語でも苦手だし、お役所系のトラブルで出店が遅れる話を嫌という程聞いていたので
プロに任せることにした。
フランス語が話せないとパリで仕事が出来ないということはない。
言葉ができないから挑戦できない、というのは違うと思うが、
言葉ができないとお金も機会もたくさん失うことになる。
事務所を訪れると、支店設立の資料がそろってた。
あまりの書類の多さとサインするところの多さに、これには挑戦しないでよかったとおもった。
書類の説明を受けてサインを。
大きな一歩前進だ。
これでアーティストビザとか代表者ビザとも呼ばれるコンペタンスエタロン(能力才能ビザ)
という3年ビザがほぼほぼ間違いなく取れるという。
そして、この月からフライングではあるが、アトリエでのレッスンの募集をはじめた。
パリならではの素材をつかって、日本では受けることのできないマンツーマンでのレッスン。
さっそく、数名の方から申し込みがあり、日本でのように花屋の仕事らしい仕事を始めることができた。
日本のお客様からパリにオープンされる店へ祝い花や、遠く離れる家族への誕生日のお祝い花などもちらほらと
注文をもらうようになった。
こういう部分は日本での12年の基盤があるからこそで、
まったくのゼロからのスタートではないことを強く感じる部分だった。
眠い目をこすりながら早朝ベッドを抜け出して
ランジス市場へ車で向かう。
仕事と車があって、お客様がいる。
前よりもたくさんの花が仕入れられることに心が喜んでいるのを感じた。
俺は花屋だ。
そう思った。そんなことがこんなにも誇らしいことだとはずっと日本でいたなら気づけなかったかもしれない。
アトリエに帰ってひとりで黙々とたくさんの花の水揚げをしながら、
花屋の門戸を叩いたきっかけを与えてくれた映画のセリフを思い出していた。
"人々を笑顔にすることができる。花屋は世界で一番素晴らしい仕事だ"
もうこのアトリエでも十分仕事ができる。
そう思い始めた頃に、待ち続けていた店の物件が急展開を見せる。
à suivre