2015年4月 6日
第1話 un moment donné
和歌山県の片田舎の町で洋裁の仕事を趣味程度にしていた母は花が好きで
二つ年上の兄と二人で、誕生日だったか母の日だったかに何かをプレゼントしようかと相談して、
すぐに 花にしよう と決まるくらいだったような記憶がある。
その後は学校の先生や、好きな女子と。。。
昔から 花を贈る ということは俺にとってワクワクすることだった。
だからといって、自分が花屋になるとはこれっぽちも思ってはいなかった。
2015年2月6日 パリ16区
エッフェル塔が美しく見えると多くの観光客で賑わうシャイヨー宮のあるトロカデロの広場。
広場にはいくつかのカフェが面しているが地元のマダム達で賑わうCARETTEはカフェではなくサロンドテ。
日本だとそんなに区別はないような気がするが、ケーキを食べたりしながらお茶を楽しむのはsalon de the だそうだ。
そんなsalon de the Carette があるアパルトマンの4階
マダムピションが雇っている弁護士の事務所で俺は契約書にサインしようとしている。
思えば実際に動き始めたのは2014年の4月だったので実に一年近くかかったことになる。
ここにくるまでいったいいくつの物件で店をスタートしてることをイメージし、そして断られただろう。
しかし、不思議と一度もパリに店を出せないと思ったり感じたことはなかった。
パリに興味を持ち始めたのは2006年くらいだったと思う。
プロとしていろいろなものを見たり、いろいろな仕事をさせてもらっているうちに
自分の美しいと思うものと、仕事に求められることに違いが生まれ始めて
日本での仕事に制限の多さを感じ始めていた。
そんなときに岩井淳さんというフラワーデザイナーに出会った。
12年前アイロニーが芦屋にオープンして間もなくから異例の抜擢で5年ほど大阪と神戸の5店舗の装花デザインと装花を担当させてもらっていた某ジュエリーブランド。この仕事をきっかけにアイロニーはたくさんの仕事をいただくことになった。
数年間アイロニーのきれいだと思える一番のものを自由に入れさせてもらっていたこの仕事が、デザインを全国のブティック統一で、ということになったらしく、
それを東京の有名なデザイナーが担当することになったので、その人のデザインに従って、これまで通り大阪神戸のすべてのブティックに納品してくれるか?という話だった。
正直、悔しい話だった。
各ブティックでは担当の人をはじめたくさんの人に気に入ってもらっていると感じていたし、作成には夜遅くまでかかってもスタッフとみんなで力を注いでいた仕事だった。
スタートして間もないアイロニーを見出して、仕事を任せてくれた方も、他社のデザインを作成して納品することはしないだろうと
別の花屋を探すつもりでいたという。
一瞬そういう選択が頭をよぎった。オープン間もないころで一人で気ままに仕事していたときならそうしたかもしれない。
しかしその頃にはもうアイロニーは会社になって社員もパートタイムスタッフもいた。
俺が社長たるべき選択をしなければならないのは火を見るよりあきらかだった。
デザインを担当をする岩井淳さんのことは雑誌などで見て知っていた。
知っていたが今思うとそのころはたくさんのブランドメゾンがアイロニーを選んでくれるようになっていたころで
ちょっと天狗になっていたんだろう。いつの間にか人の花をきちんと見ることをやめていたように思う。
自分の花は自分の中にある。それを探していけばいいと思いあがっていた。
しかしそれから数年、
おれはその仕事によって、岩井さんから花屋の仕事のデザインというものが
なんなのかを勝手ながら学ばせてもらうことになった。
毎月毎月、全国のブティックを担当してる花屋が、
それぞれの市場の仕入れルートで同じように仕入れられる花で、
そしていろいろな癖や感覚をもつ各地の担当花屋の誰が活けても、
日本全国ブティックで同じデザインの花があるということをクリアするデザイン。
そして、それだけの制限を感じさせない美しさや驚きのあるデザインが送られてきた。
おれは、毎月のようにその花をみて、そのデザインにいたる苦悩や、思考回路を遡ろうとした。
そして、それを自分の解釈で別の制限の中にあてはめて自分の中でひとつだけでも先に進められるようにと試行錯誤をした。
それは、とくに師を持たずにアイロニーをはじめたおれにとっては
他のフローリストにいちばん大きな影響を受けた時期だったと思う。
そして、岩井さんからさらに師であるフランスの偉大なフローリストの仕事を感じていた。
音楽を聴いていて、すごく気に入ったアーティストが聴いて育った音楽を聴きたくなることがある。
そしてそのルーツのアーティストに影響をうけたという
他のアーティストの音楽も聴きたくなることがある。
それと同じようにパリで一時代を築き、
世界的に有名になったクリスチャン・トルチュという偉大なアーティストの花の系譜を
見るようになった。
同じように彼のところで仕事をしていて独立した
有名フローリストの花はやはりどこかにトルチュのエッセンスが感じられて
おれは実際にこの目でトルチュの花を見たことはないんだけど、
ものすごく才能のある彼のスタッフたちが、
それぞれの才能を発揮しながらも、もっと大きな懐のクリスチャン・トルチュの誰々だと
感じさせるほどのスタイルを
トルチュが確立したという事実にただただ尊敬の念を抱いた。
キャトリーヌ・ミュラーや、ローズバッドのヴァンソン・レサール、
ヤニック・スージニエブや、アレックス・カンビ、
そうそうたる面々が彼の下で、それぞれの創造性を発揮していた。
それぞれの創造性を発揮しつつ、俺のように部外者が見たときに、
トルチュらしいと感じられるということは、すごいことだと思う。
おれはその花のスタイルにも惹かれたけど、花屋として、そういう懐の大きな部分に強烈に惹きつけられた。
アイロニーもそういう形の花屋になりたい。と強く思った。
俺がつくるアイロニーというスタイルの中で、
スタッフの創造性がいかんなく発揮できるような大きな懐。
しかし、そのころはアイロニーの花に押さえつけてしまうか、
アイロニーの枠からはみ出してしまうか、
どちらかになってしまうことばかりだった。
たくさんの気持ち入れてつくったスタッフの花を
アイロニーの花ではないと
否定して泣かしてしまうこともあった。
そんなクリスチャン・トルチュという偉大な花屋に漠然と憧れを抱いていたものの、
このときもまだパリに店を出したいとは思ってはいなかった。
それどころか、おれはパリに行ったことすらなかった。
ひとつのきっかけは、ある同世代のフローリストがもたらした。
彼は、おれよりもひとつ年下だったが、
アイロニーよりも1年早く苦楽園という芦屋の近くにある西宮の高級住宅街で花屋を開いていた。
思えば俺の変化がその彼に少なからず影響を与え、
そしてめぐりめぐって俺をパリに向かわせることになったのだった。
さて、その彼の話はまたいずれゆっくりとするとして。
人生というのは本当に不思議なものだ。
全てのことがつながっている。
Avec les Fleurs と名付けたこの物語は、
これからのアイロニーのパリでの挑戦を
一緒に楽しんでもらえるようにたくさんの写真とともに
ここに至るまでの過去のことも振り返りながら、
花を仕事にしている人はなにか役立つことを見つけられたり
一番心がけたいのは、たくさんの人に花屋というものをよく知ってもらって、
花を贈るということの楽しさを知ってもらえるような話をしたいと思っています。
花は人と人をつないでくれます。
俺はすごく人に恵まれて生きてきています。それは花が近くにあるからです。
あなたの人生という旅のもちものに少しだけでも花を手に取ってみたなら
その旅はきっと素晴らしい人とのつながりで彩られるでしょう。
第1話はここまでにしておこうと思います。